坪井玄道の留学同期生

坪井玄道は明治33(1900)年英独仏に留学するのですが、『元文部省外国留学生一覧』(文部省専門学務局,1909)によれば、同年度の留学生に夏目漱石、黒田清輝、滝廉太郎がいます(同ページに載ってます)。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40016927&VOL_NUM=00000&KOMA=17&ITYPE=0

明治8年の第1期には鳩山和夫、小村寿太郎がいます。初期には法学、工学、医学など“国家枢要”の学問分野ばかりですが、明治30年代になると文学、音楽などの周辺?分野に拡大しているようです。女性もいます。

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明治時代の小学校

明治18(1885)年から蹴鞠またはフートボールとしてサッカーが紹介されはじめますが、その背景として明治14(1881)年に小学校教則要領が制定され、それまで地方によってバラバラだった小学校の教育課程が全国的に統一され、かつ「体操」がその中に含まれていたことがあると思われます。明治18年に『戸外遊戯法』を著した坪井玄道こそわが国の体育教育のパイオニアです。教育課程は統一しましたが、標準的な教科書は編纂されなかったので、各地方で遊戯法、体育法のような書名で刊行されたようです。『実地体育法』(〔岡山〕:岡山県岡山学校,明19.7)などその典型的なものでしょう。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075608&VOL_NUM=00001&KOMA=4&ITYPE=0

従って、市場ターゲットは小学校教員だったようです。文部省編『学制百年史』の統計によれば、

               小学校数    教員数    児童数

明治6(1973)年   12,558   25,531    1,145,802

明治20(1887)年  25,530   56,836    2,713,391

明治40(1907)年  27,125  122,038    5,713,698

1校あたりの平均教員数は明治6年、明治20年は2人強、明治40年で4.5人です。明治20年ころまでは寺子屋色が濃かったことがうかがえます。1校あたりの平均生徒数は明治6年91人、明治20年106人、明治40年211人です。最初から団体球技ができるだけの人数はいたわけです(笑)。

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F. W. Strange『Outdoor games』のキックイン

F. W. Strange著『Outdoor games』(Z. P. Maruya, 1883)は国内刊行で最初にサッカーを紹介した本で、下村泰大編『西洋戸外遊戯法』(泰盛館,1885)はその抄訳です。タッチから出たボールをキックインで入れるというのが特徴で、原文は以下のとおり。

“When the ball is in touch, the first player who touches it shall kick it into the course again from where it went out, and at right angles with the touch line.”

ハロー校ルールでは、

“If the ball is kicked beyond the prescribed limits of the ground, it must be kicked straight in again and then must not be touched by the hands or arms below the elbow.”

で、一字一句違わなければ経歴不明といわれるStrange氏の経歴を推測する手がかりになったのですが。現在本サイトで明治期に「蹴鞠」としてフットボールを紹介している本を採録中(原文にリンクを張ってありますので、原文をご覧になれます)ですが、多くはキックイン式でStrange-下村本の影響の大きさをうかがわせます。坪井玄道の『戸外遊戯法』(金港堂,1885)は下村本とほとんど同時に出版され、FAルールのスローインを紹介しているのですが、明治20年前後の諸本をみるかぎり、あまり影響力がなかったようです。

http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/book1.htm

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FAカップ参加チーム数

中村敏雄『スポーツ・ルール学への序章』(大修館書店,1995)p.116-117によれば、第1回(1871/72年度)FAカップの参加チーム数は15チーム、1883/84年度で100チームだそうです。FAのHPにも15チームがエントリーとあります。

http://www.thefa.com/TheFACup/TheFACup/History/Postings/2006/01/FACup_History.htm

以前、1874年に海軍兵学寮と工学寮で“フットボール”が行われた記述がある文献(沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)、旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』(虎之門会,1931))を紹介しましたが、1871/72年におけるイギリスのアソシエーション式の普及状況が以上のようなものとすれば、正式のアソシエーション式であった可能性はほとんどないといえるでしょう。

フットボールをドリブリング式とハンドリング式に分けるとすれば、前者に属していたとはいえるでしょうが。

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坪井玄道『戸外遊戯法』のスローイン

坪井玄道『戸外遊戯法』(金港堂,1885)のスローインに関する記述は以下のとおり。

“第五条 球ノ境線或ハ線外ニ蹴リ出サレタルトキハ最初ニ其球ニ触レタルモノハ球ノ出デタル線上ヨリ球ヲ境線ト直角ヲナス如クニ之ヲ投クベシ而シテ其球ノ一タビ地ニ達セザル間ハ球ニ触ルル可ラズ”

中村敏雄『スポーツ・ルール学への序章』(大修館書店,1995)p.109に1863年の最初のFAルールが紹介されています。スローインに関する部分は、

“5 ボールがタッチに出たばあいには、ボールに最初に触れたプレーヤーが、ボールがグラウンドを越えたバウンダリー・ライン上から、バウンダリー・ラインと直角にグラウンドに向ってボールを投げ入れる。投げ入れたボールが、グラウンドに触れるまでは、イン・プレーにならない。”

さすが東京高等師範学校教授、坪井玄道はFAルールを正確に紹介しています。「直角に投げ入れる」というのはFAルールだったんですね。『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部,1983)に「こんな時代もあった」という座談会が掲載されており、日本フートボール大会(現在の高校選手権の前身)第1回大会(1917年)に明星商業選手として出場した神田清雄が、

“それにスローインは真っすぐ線に直角に投げんといかなかった。一種のラグビー式ですね。それにカカトをあげたら反則でした。”(p.33)

と述べています。これもラグビーと混同したのではなく、本来のルールだったわけですね。

ところで坪井本とほとんど同時に出版された下村泰大『西洋戸外遊戯法』(泰盛館,1885)には、

“球若シ「タッチ」ニ至リタルトキハ最初球ニ触レシ者其球ノ来リタル方向ニ於テ「タッチ」ト直角ニ之ヲ蹴ルヘシ”

とありました。中村氏の本には「スローインの方法」という節もあり、p.134に各学校のフットボールのスローイン方法をまとめた「スローインの諸形態」という一覧表があります。それによると「キック」でかつ「まっすぐに蹴る」というのはハロー校ルールのようです。巻末付録にハロー校ルール(1858)(p.236-237)もあり、

“9 : If the ball is kicked beyond the prescribed limits of the ground, it must be kicked straight in again and then must not be touched by the hands or arms below the elbow.”

となっています。

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「考える」ことができなかった明治・大正期

竹腰重丸が“サッカーは考えることができるスポーツであることを知った”のは大正時代、ショート・パス戦術が日本に定着するのは昭和時代です。

野球がすでに明治期に専門誌が刊行され、新聞で反野球キャンペーンが打たれるほど普及したのに、サッカーが普及しなかったのは「考えることができる」競技レベルの問題があったのではないかと思われます。

野球は基本的には投手対打者の個人的対決です。比較的容易に投手は左右高低、緩急、直球変化球の配球を「考えることができる」ようになります。日本野球の祖平岡煕は日本で最初にカーブを投げた人でもあったそうです。打者は投手の配球を「読む」ことが重要になります。例えば、変化球で続けてストライクにならなければ、直球を待つように。併殺、中継、牽制、ヒットエンドランのような連携プレーもありますが、最も大きなウェイトを占めるのは投手と打者の個人的対決であり、個人の技能がある程度習熟すれば「考えることができる」すなわち「駆け引きが堪能できる」競技レベルに達することができます。野球が天下の秀才が集まる第一高等学校の「校技」になったのはこの理由によると思います。

ひるがえってサッカーの場合、パス戦術の基本である三角パスができるようになるためには、フィールドプレーヤーの技能を同等に習熟させる必要があります。FW、BK一体となった展開ラグビーも同様でしょう。もちろん1対1の場面もありますが、フットボール系スポーツの醍醐味は連携プレーの面白さにあるのではないでしょうか。単に前に蹴るだけのサッカーやFW周辺で押し競饅頭しているだけのラグビーはプレーヤーも観衆もまったく面白くないものだったと想像できます。

野球と同じくアメリカの国技ながらアメフトが日本ではほとんど普及していないのは、戦術が理解できないとまったく面白くない「究極の戦術スポーツ」であり、かつチームを戦術的レベルに引き上げるのは容易ではないからでしょう。

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野球を止してフットボールをやろう

いただいたメールによれば、昨日の“ボールを出した側?”は“ボールがタッチ外に出てから最初に触れた側”だそうです。明治期の他の「蹴鞠」を紹介した本にも同様の記述があります。Strangeおよび下村本の亜流かもしれませんが。

ところで、上記タイトルは慶應義塾蹴球部編『ラグビー式フットボール』(博文館,1909)の本文巻頭。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40076117&VOL_NUM=00000&KOMA=18&ITYPE=0

本邦最初のラグビー本もアンチ野球が意識されていて、野球の非紳士的なマナーが非難されています。

“・・・其審判者に対して彼れ此れ文句をつけるのみならず所謂野次迄之れに加はりて喧嘩するは今日野球界の状態なり(四十二年五月八日早稲田大学対第一高等学校野球試合は其好適例なり)。痛はしからずとせんや。互に給金の増進換言すれば直接生活問題に影響する国技館に於ける角力に於てすら、余りに勝敗に悶着を惹起せしむる力士は見苦るしきもの也。況や士道に生活する学生が彼等が自から選べる審判者に対して不平を並ぶるに至りては到底吾人フットボール、プレーヤーの耐ゆる能はざる所也。・・・”(p.3-4)

東京朝日新聞に明治44(1911)年8月29日~9月19日にかけて22回掲載された反野球キャンペーン『野球と其害毒』に見られるような、明治末から大正にかけて、

野球興隆→アンチ野球→蹴球奨励

という流れがあったようです。

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『西洋戸外遊戯法』

(泰盛館,明治18.3)を追加しました。日本で最初にサッカーを紹介した坪井玄道の『戸外遊戯法』(今まで遊“技”と誤綴してたのに気づいていませんでした。恥)が明治18年4月なので、瞬時の差ですがこちらの方が早いようです。「手を使うな」という趣旨のことが書かれているので、アソシエーション系のフットボールだと考えられます。

英国人ストレンジ氏が丸善から刊行した『Outdoor games』(1883)の抄訳。Frederick William Strange氏は学歴不明なのですが、彼の伝記サイトによれば、デボンシャー出身、故郷のボートクラブに属していたようで、「日本ボート界の祖」的人物、日本で亡くなり、青山墓地に埋葬されました。

ルールで興味深いのは、

“球若シ「タッチ」ニ至リタルトキハ最初球ニ触レシ者其球ノ来リタル方向ニ於テ「タッチ」ト直角ニ之ヲ蹴ルヘシ”

とあって、サッカーのスローイン、ラグビーのラインアウトとも異なります。タッチラインと直角にボールを入れるところはラインアウトと同じですが、ボールを出した側?がキックでボールを入れることになってます。

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「蹴球」の初出について

「蹴球」という用語の初出については、『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)p.22に「明治31年1月15日発行の『教育』によれば、蹴球部長坪井玄道教授の記事がある。」とあります。すなわち、明治31(1898)年が「蹴球」の初出ということになります。ところが、雑誌『教育』の書誌データをNACSIS-Webcatで確認すると、

教育<キョウイク>. -- (AN00318153)
1號 (明33.3.3)-94號 (明40.12.15) ; 299號 (明41.1.1)-831 (1959.7). --
東京 : 茗溪會事務所, 1900-1959
注記: 95号を299号と改称 ; 出版者変更: 茗溪會事務所 (-72號 (明39.2.15
))→茗溪會塲 (73號 (明39.3.15))→茗溪會場 (74號 (明39.4.15)-94號 (明
40.12.15))→茗溪會 (299號 (明41.1.1)-)
継続前誌: 東京茗渓會雜誌 / 東京茗渓會
継続後誌: 茗渓
著者標目: 茗渓会<メイケイカイ> ; 茗溪會事務所<メイケイカイ ジムショ>
; 茗溪會塲<メイケイ カイジョウ> ; 茗溪會場<メイケイ カイジョウ>

になっていて、創刊は明治33(1900)年になっており、明治31年は前誌名の『東京茗渓會雜誌』のはずです。
同誌の明治31年1月号の現物を確認しましたが、1月“20日”発行で「蹴球部長坪井玄道教授の記事」は見当たりませんでした。『教育』の方の現物も確認したいのですが、初期の『教育』の現物を揃って持っているのは筑波大学図書館(筑大 1-81,83-94;299-368,370-550,552-606,828-831<1900-1907;1908-1959>)のみです。

私見ですが、明治“31”年1月15日発行は明治“37”(1904)年の誤りではないでしょうか。事実、東京高等師範学校のフットボール部は1904年に蹴球部に改称しています。

だとすると、1903年に体育会蹴球部を名乗った慶應義塾のラグビーの方が、先に“フットボール”を“蹴球”と訳した可能性が高くなります。

なお、「蹴鞠」なら明治18(1885)年まで遡ることができます。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075865&VOL_NUM=00000&KOMA=17&ITYPE=0

コピペして「ファイル」→「開く」からお願いします。

ちなみに、ベースボールを野球と訳した典拠文献はコチラ

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40076077&VOL_NUM=00000&KOMA=11&ITYPE=0

“庭球ニ対シテ野球ト命名”とあり、野球という用語に先行して庭球があったことがわかります。

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